今までの研究によると、石川啄木の作品が韓国語で最初に訳されて紹介されたのは、1932年2月に金相回が翻訳した果てしない討論の後でであった。一方、金基鎮は1923年白潮に載った彼の批評文である舞い落ちる一切れ一切れで金相回が翻訳した詩と同じ詩を部分的にではあるが紹介している。そして、1924年6月開闢48号には、彼の詩である白手の嘆息が掲載されたが、この詩は啄木の詩であるはてしなき議論の後の翻案に近い。本稿では金基鎮と石川啄木の関連性を中心に1920年~30年の韓国文壇においての石川啄木受容の様相を考察した。金基鎮は日本で1910年から1920年にかけて日本で過ごしたが、その当時の日本はプロレタリア文学が台頭しつつ発展していく時期であった。ここで扱った啄木の文章が発表されたのは、1909年、金基鎮の文章は1923年で、14年という時間の差がある。しかし、啄木は日本の近代詩史上、大変早い時期から彼の社会主義的な思想を、彼の作品の中に完成度高く表現した作家で、日本でプロレタリア文学が登場しながら、その当時の日本社会では、関連者たちが再び啄木を注目していた。このような状況にあって、金基鎮は啄木の作品に触れ、心酔するようになったのであろう。彼は使命感を抱きつつ韓国に帰り、彼の文学活動を展開していくが、その中に多くの啄木の影響が現れている。
1. 들어가며
2. 1920년대 전반기와 김기진
3. ‘프로므나드 상티망탈’과 ‘弓町(유미쵸)에서’
4. “떨어지는 조각조각”과 “조각조각으로 마음에 떠오른 느낌과 회상”
5. 나오며
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