노리나가의 국학과 정의
Kokugaku(classical scholar of the country) of Norinaga and Justice
- 일본어문학회
- 일본어문학
- 日本語文學 第53輯
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2011.05427 - 442 (16 pages)
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善人必ずしも榮えず惡人必ずしも滅びないということは、この現世において誰もが生活の實感として認識していることである。そうであればこそ人は、いつかは善は嘉せられ惡は罰せられるという善惡の審判や正義の實現を信じずにはいられない。ところで江戶時代における國學者は生前と死後を通じて正義の行われる保証を否定した。彼らはその証據として惡人が榮えて善人が不幸に終わった例をあげながら、人は生前であれ死後であれ正義が行われるとは限らない不條理の世界に住んでいることを主張した。中でも宣長は禍津日神という惡神まで措定して正義の行われにくさを强調した。彼らの意図は、善惡の審判と正義を保証する思想―特に儒敎と仏敎―がこの世の不條理を嘆き悲しむという人間の眞情を抑壓すると考え、人生の不條理の方を人が生きるということの實相として把握しようとするところにあった。ところが、正義に対する欲望ㆍ憧憬もまた人の本性である。この側面をも視野に入れたのが秋成である。宣長は皇祖神絶對崇拝など極端な日本至上主義のため人間の主体性や道徳意識を度外視したが、秋成は生身の人間の姿を尊重しながらも、人のふみ行うべき正しい道やそれを實踐できる强靭な精神力を追求した。本稿は同じく眞淵系統の國學者でありながら思想の本質的な面で全く異なった宣長と秋成を中心に、國學者の人生の不條理に對する認識と正義觀について考察したものである。
Ⅰ. 서론
Ⅱ. 부조리와 참마음
Ⅲ. 일본신과 정의
Ⅳ. 아키나리의 경우
Ⅴ. 노리나가와 정의-결론을 대신하여
참고문헌
例文出典
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