文禄ㆍ慶長の役、即ち秀吉の朝鮮侵略は、数多い人々をその渦巻きの中にまきこんだ。その当時朝鮮人でありながら日本側についた人もいた。彼等は順倭と呼ばれている。順倭の中には、心ならずも日本側の手先になった者もいれば、もともと朝鮮国家にうらみをいだき、日本軍の侵略をきっかけに積極的に順倭になった者もいた。そして、日本軍のなかにも朝鮮側に投降した者がいた。彼等は降倭とよばれている。彼等のなかには長陣による兵糧不足と厭戦気分から降倭になった者もいれば、はじめから秀吉の海外派兵に疑問をいだき、積極的に朝鮮側に投降した者もいた。 その中の一人が降倭ㆍ倭将沙也可ㆍ金忠善である。彼は文禄ㆍ慶長の役の時、加藤清正の先鋒長として海を渡ってきたが、この戦争は大義名分ないと思って、豊臣秀吉軍に反逆し、軍兵と共に投降した。以後、朝鮮王朝に協力し大きな戦功をあげた。この功で朝廷より賜姓金忠善という姓名と官職を授けてもらった。このような降倭ㆍ沙也可は、日帝強占期において時代の流れに便乗した日本学者達により彼の存在そのものが否定された。そして彼の行狀を記録した文集の「慕夏堂文集」もでっちあげだと主張された。本稿はこのような降倭ㆍ倭将沙也可の否定論に対して韓ㆍ日文献を通して沙也可の実存を考証することで、歴史的実存の人物として沙也可の存在を究明し、その意味を考察してみた。
〈要旨〉
1. 연구목적과 선행연구 검토
2. 사야가(沙也可)의 투항과 활약
3. 사야가(沙也可)의 실존에 대한 고찰
4. 한ㆍ일 문헌 속에 나타난 사야가
3. 맺음말
【参考文献】
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