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학술저널

자기와 타자 - 시가 나오야의 『암야행로』

自己と他者ー志賀直哉の『暗夜行路』

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『暗夜行路』は発表以来、その主題をめぐって様々な論議を呼び起こした作品である。特に昭和十三年に志賀直哉が「続創作余談」を発表し、その中で「主題は女の一寸したさういふ過失が、ー自身もその為め苦しむかも知れないが、それ以上に案外他人をも苦しめる場合があるといふ事を採りあげて書いた」と述べたことを受けて議論が発展した。たとえば、小林秀雄や中村光夫は『暗夜行路』の倫理性を指摘し、本多秋五はそれよりも主人公時任謙作における内面の成長を強調している。 しかし私は、志賀直哉が『暗夜行路』を通して真に問いかけているのは別の点にあると思う。それは人類の原罪ともかかわる〈罪〉の問題ではなかったろうか。それを象徴するかのように『暗夜行路』には、前編では母の罪とその罪の罰として生まれた罪の子としての主人公謙作の罪、栄花と蝮のお政の罪などが描かれ、後編では妻の罪の問題などが提示されてくる。女の罪として代表されるこれらの罪の問題を描き、それを通して謙作を含む男の罪の問題を逆照射することに志賀直哉の真の意図 があったのではなかろうか。 母の罪を通して自分の罪を自覚した謙作は、今度は妻の罪を通して、観念と現実の対立、それによる自己分裂の絶頂に達する苦悩を経験し、そこでさらに大事な自己発見にいたる。それは自分の過去が常に「自身の内にある」「暴君」との「一人角力」であったという認識であった。その「暴君」こそ、謙作の内にある他者、罪ではなかったのだろうか。それは時には謙作を「放蕩」に走らせたり、自己中心にさせ、他人不信にさせたり、妻を虐待したりしながら彼を翻弄してきたのである。謙は 妻の罪によって自分の過去の罪を思い起こし、深い悔恨を込めて罪を懺悔している。懺悔を通し、あるがままの自分をさらけ出す、新しい自己との出会い、これこそ『暗夜行路』の目指す世界ではなかったろうか。 自らの闇の正体を知ること、それがまさに罪というものに他ならなかったことを知ること、それは時任謙作における〈暗夜行路〉の終焉であり、新たな行路の始まりでもあった。

가. 들어가며

나. 분열하는 ‘자기’

다. 타자의 변용

라. 글을 맺으며

참고문헌

<要約>

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