批評家保田与重郎は「日本浪漫派」の広告文で「イロニーとしての日本」を提唱する。以後イロニーは保田与重郎に於ける思考の原理になった。しかし、その原理はドイツ浪漫派の理論家シュレーゲルの概念を離脱した使用法に基づいたものであった。「創造」と「破壊」の中間に浮遊する主体が辿りつく知の不可能という浪漫的イロニーは保田与重郎の思考の中では伝統の断絶による知の不可能という位相に置き換えられた。保田与重郎はそのような状況認識を正岡子規論の中で「歌うべくして語った精神の悲劇」として表現した。 その歌と語りの分裂は富士谷御杖の言霊倒語説による「詠哥」と「言語」の分裂から借用した言葉であった。保田与重郎はそのような富士谷御杖の言語論を過渡期という時代の閉塞状況の理解のために転化したのである。それは正岡子規に於ける詩の喪失と詩の當為を共に要求する空間としての日本の近代に対する状況認識であったと言えよう。保田与重郎はここに至る観念生活の過程に於いて、浪漫的イロニーと言霊倒語説の交錯の上に自己精神の近似値を発見したのである。 本論稿はそのような過程に於ける転化の方法を具体的に論じたものである。
Ⅰ. 序
Ⅱ. 浪漫的イロニ─と保田与重郎
Ⅲ. 言霊倒語説と保田与重郎
Ⅳ. 結
参考文献
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