本稿では福沢諭吉の学問のすゝめによって引き起こされた「楠公権助論」をはじめ、前近代における「正成の死」をめぐる論争の考察を通して、楠正成が忠孝の模範である一方、国民動員が行われた戦時下の時代の精神を象徴する両側面を持つようになった経緯を明らかにする。福沢諭吉は、前近代的な忠誠が近代国家においては非合理的な概念であることを主張する「赤穂不義士論」や「楠公権助論」を発表し、当時大きな議論を巻き起こした。特に福沢を批判する人々は福沢が楠正成を意図的に「権助」扱いしているとして強く反発し、論争は福沢が「学問のすゝめの評」という弁明の文を寄稿することで漸く沈静化するが、福沢が心底では一貫して尊王論者の国体論を批判していたと見られる点は注目される。 福沢が指摘しているのは、「正成の死」の意義の解釈というよりは、「時勢の変革」における日本の国体概念のあり方であった。したがって、明治初期という変革期に「楠公権助論」が起こった背景は、前近代の「忠」を尊重すべきとする気運の高まりというよりも、あくまでも楠正成が天皇と不可分の存在として結び付けられたことに求められるものであり、「楠公権助論」の本質は「忠」をめぐる議論ではなく、天皇制の是非にあったと言える。
Abstract
Ⅰ. はじめに
Ⅱ. 前近代における「楠正成の死」をめぐる論争
Ⅲ. 福沢諭吉の『学問のすゝめ』と「楠公権助論」
Ⅳ. 『文明論之概略』と国体論
Ⅴ.おわりに
참고문헌
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