江戸参府のため長崎出島を出発したオランダ商館一行はまず陸路で小倉まで行き、下関を通り大阪京都を経て江戸で将軍に謁見し貿易の継続の許可を得た。この過程や経緯を江戸参府旅行に随行するオランダ商館の医師らによって書かれ具体的な紀行記録でかいまみることができる。本稿はいままであまり知られていなかったそのほかの記録に注目する。途中で滞在した大阪や江戸の'オランダ定宿'の記録である。江戸阿蘭陀宿長崎屋源右衛門、京同海老屋与右衛門、大坂同長崎屋五郎兵衛、下関同佐甲三郎右衛門、伊藤杢之丞ー、小倉同大坂屋善五郎、いわゆるオランダ定宿の記録のうち京都の滞在を中心に、彼らがどのように費用を負担し、手続をしたのか、職務はどのように決められたのか、意思疏通のためにはどのような努力をしたのかを近年活字化された京都海老屋の史料を中心として具体的に諸相を明らかにしようと試みた。また、一行の人的構成、とりわけオランダ通詞の役割についても検討した。さらに京都は往路と帰路、2度にわたって訪問することになるので、往路での出来事と帰路での出来事を区分して分析した。その過程で京都のみ観光、もしくは散策が最後の日に予定され、知恩院、祇園、方広寺、耳塚がそのコースになったことについて仮説を立てその意味について考えてみた。
일본어요약
1. 문제제기
2. '에도여행'의 인적구성과 비용부담
3. 교토의 지정숙소 에비야의 수속절차와 지침
4. 방광사, 미미즈카 방문의 상징성
5. 결론
참고문헌
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