학술저널
本稿では遠藤周作の『わたしがㆍ棄てたㆍ女』を対象作品とし、主人公であるミツと吉岡がイエス像を認識する過程に注目してみた。まず、ミツの場合、他人の不幸について敏感に反応せざるを得なかった'個人的体験'から刺激されることによってイエスの声を受け入れる姿をみせている。反面、吉岡はイエス像との関係において'上位'の位置付けではなく、イエス像と自分が'同等'の立場になること、つまりイエス像の'聖'から'俗'への移行が予想される視点からイエス像を認識し始めようとしていた。最後に考えられることはミツの死の後'消すことのできぬ痕跡'を通じてミツが吉岡の内面に'聖女'として刻み込まれており、それによって吉岡の中にイエス像が完成されることである。作品の主人公を通じて表れるこのような認識の感覚は遠藤周作の信仰観の一面を表すだけでなく、普通の日本人の信仰観を窺わせるものであり、遠藤周作の文学を通じて日本人の信仰観を読むという側面からも本作品の存在意義を見出すことができるのである。
일본어요약
1. 들어가며
2. 개인적 체험으로부터 인식되는 예수상
3. '상위(上位)'가 아닌 '동등(同等)'으로부터 인식되는 예수상
4. '흔적'을 통하여 완성되는 예수상
5. 나오며
참고문헌
(0)
(0)