학술저널
本稿では、習作期の鮎川信夫の詩世界を「死」に関する言説と作品を中心に考察した。鮎川が早稲田高等学院に入学した1937年から、日本は中国との全面戦に入ることによって、国家総動員法が発令され、本格的な戦時体制に入る。その影響で、死の日常化が始まり、生と死が等価化するようになり、そこから死への親愛感が生じる。その結果、死を生と対立するものではなく、逆に、生の深さを増す動力として認識せざる得なかった。 そして、詩「遊園地区」と「ギリシャの日傘」では「仮死」状態を、詩「室内」では密閉された空間に閉ざされた詩的主体の様子を通じて、時代の圧迫感を表象していた。次に、詩「唄」では自己死を宣言していたが、これは自己愛によるものであった。最後に、詩「カタストロフ」では外部世界と自我の同時崩壊が起きていたし、詩「泉の変貌」では自分が死者であることを認識し、自らを葬ろうとしていた。その一方で、「死の谷間」に入らざる得ない同世代の若者を代弁しようとする<代弁者意識>が芽生えていた。
일본어요약
1. 들어가며
2. 죽음에 대한 친애(親愛)감의 발생
3. 실내에 폐쇄되어 있는 「자아」
4. 자기 사랑(自己愛)의 실천으로서의 죽음
5. 죽음의 일상화와 자아 붕괴
6. 나오며
참고문헌
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