日本帝国主義の朝鮮において同和に関する教育企画は鉄道の延長線で具体化され、植民地の朝鮮経営に関する事項は朝鮮に敷かれた鉄道を歌った唱歌、いわゆる<植民地鉄道唱歌>にでもその同和策が隠されてあった。その代表的なものが日露戦争の直後の1906年に発刊された『滿韓鐵道唱歌』である。この歌詞を作った大和田建樹は日本の少年たちが植民地の東アジアの構図を想像させ、さらに日本の侵略の歴史に対する自慢と、北東亞の支配に対する確信を持たせてやりたがったことが分かる。この状況で崔南善の視線は'鉄道'という先進文明を受け入れながらも、植民地朝鮮に対する暴力の象徴として迫ってくる鉄道に対する自分なりの抵抗を「京釜鐵道歌」で成し遂げている。植民地の拡張のために世界を相手にした日本帝国のもう一つの企画は、それから三十余年が経た1941年、朝鮮総督府によって編纂された<唱歌>教科書に収録された「朝鮮鐵道唱歌」に提示された。京城を中心として世界を向いた新しいジャンプㆍアップを夢みながら『滿韓鐵道唱歌』で想像力を超越する大きな設計図を京城を出発点として構想して見せたのである。日本が近代国民国家を築き上げ、国を越えて植民地の拡張に熱をあげていく政治的な地平を広げるために、<植民地朝鮮の鉄道唱歌>は初等敎育の課程で教育されたうえ実践され、その過程で一体感と意識化を促發したものであり、国政の方向によって進軍歌にも拡張され、歌われたことは言うまでもなかっただろう。
일본어요약
1. 서론
2. 근대 식민지철도의 전개
3. 침략과 지배를 위한 路程
4. 결론
참고문헌
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