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학술저널

아나키스트 박열과 해방 후 재일한인 보수단체

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この研究は解放後から1949年4月頃までの新朝鮮建設同盟(以下、建同)、在日本朝鮮居留民団(以下、朝鮮民団)、そして在日本大韓民国居留民団(以下、民団)が結成される時の朴烈の思想および政治的な選択と彼を取り巻く関係者および韓半島との関係に焦点を当てて考察した。 在日本朝鮮人連盟(以下、朝連)の共産主義者らは解放後、過去における日本の軍国主義を批判し天皇制打倒と共産主義国家の建設を主張した。また、親日系の韓人たちに暴力を振るって排除した。それに対しアナキスト朴烈は解放後、四海同胞主義を主張し、過去の日本のことはもちろん、天皇制についても批判しなかった。すでに朝鮮が独立をしたから、日本に対する内政干渉の必要がなくなったし、むしを親善を追求すべきだというのが彼の立場だった。さらに、朴烈は親日系の韓人を在日韓人社会から排除することもできたが、むしろ彼らを包容した。こうした朴烈のアナキスト的な思想と立場は建同、朝鮮民団の性格と活動にそのまま反映された。 その結果、建同の活動は日本の過去を問題したり、内政に干渉しておらず、新しい祖国建設と自分たちの民生問題を優先視した。新しい祖国建設を自分たちの主な課題にすることはしたが、建同は、韓国政治の対立と混乱の中で特定の政治集団に加担せず、むしろ「統一戦線」の必要性を感じていた。さらに朝鮮民団は韓半島の政治的な混乱が続くなか、また、日本国内での在日韓人の生活が不安定ななか、祖国建設という課題を排除し、自らの問題を解決を最優先とするため、政治的な「無色」の「民生」団体として位置しようと努力した。 しかし、朴烈は5ㆍ10総選挙と韓国単独政府樹立に対して朝鮮民団団長として露骨的に支持し始めた。それによって朝鮮民団は「無色」ではなく、李承晩の政治路線を支持する団体になった。そして彼と別の立場を持っていた李康勳と元心昌など、他の独立運動家出身の保守系在日韓人らと決別する決定的な契機になった。李承晩の政治路線を支持し始めた瞬間、「アナキスト」朴烈は「現実主義」の右派の指導者になっていた。それによって保守系団体は分裂し、その分裂は今も続いている。 財政問題などで建同と朝鮮民団そして民団は朝連とは組織規模において比較にならなかったが、朴烈が民団から離れた時の民団は全国的な保守団体としての体裁をある程度整えるようになった。

Ⅰ. 서론

Ⅱ. 박열의 해방과 건동 결성

Ⅲ. 조선거류민단의 결성과 그 배경

Ⅳ. 남한 단독정부 수립과 박열의 선택

Ⅴ. 결론

참고문헌

일본어요약

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