従来の研究は、李良枝の民族的アイデンティティが問われる際、伽倻琴 という「文化的」ものに焦点が絞られていた。李良枝は、1975年、早稲田大学に入学し、韓国にも日本の琴のような伽倻琴があることを知り、「文化的」ものを通して民族的アイデンティティを探し求めると同時に、「丸正事件」の無実を訴えるハンガーストライキ、つまり「政治的」ものを通しても民族的アイデンティティについて考えていた。この時期は、李良枝における民族的アイデンティティは、「政治的」ものと「文化的」ものの間に揺れ動いていたと言えよう。しかし、李良枝は、「観念的」ではなく、より「具体的」ものを探し求めるため、1980年、本格的な伽倻琴の修業のため、母国の韓国に行く。 本論文では、まず、李良枝は、「丸正事件」のハンガーストライキ、つま り「政治的」ものを通して何を学び、次に、留学生活の中で書いた『ナビㆍタリョン』(1982)から『刻』(1984)に移るにつれ李良枝の母国に対する心境は、伽倻琴を通してどのように変化していくのか考察したい。最後は、1988年、発表された『由煕』は、『ナビㆍタリョン』と『刻』と異り、伽倻琴から大笒へ、そして韓国人側から「在日韓国人」の母国での苦闘を描くという視点の変化が試みられるが、その意味を探ってみたい。
일어요약
1. はじめに
2. 李良枝における「丸正事件」が意味すえうこと
3. 『ナビㆍタリョン』と『刻』における伽倻琴の意味
4. 伽倻琴から大笒へ
参考文献
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