日本列島では3世紀後半から約350 年間、前方後円墳という特殊な形の古墳が築 かれている。南は鹿兒島縣から北は岩手縣南部にわたって分布する。墳丘長200m 以上の巨大前方後円墳が36 基あり、墳長約100m級まで含めると300 基以上ある。世界的にみても特筆される文化現象である。日本歷史ではこの時期を、本格的な律令國家が成立する前段階として「古墳時代」と呼んでいる。そのため古墳という言葉 に特別な意味が付け加えられ、墳丘の形や規模、埋葬施設、副葬品がほとんど同じでも、弥生時代の墓は古墳ではなく、墳丘墓あるいは弥生墳丘墓と呼ばれている。 日本考古學で古墳および古墳時代を定義し古墳と區別して墳丘墓の呼称を用い 始めたのは、近藤義郞氏と都出比呂志氏である。兩氏が定義した「古墳時代」は、律令國家成立前段階に瀨戶內・大和(奈良縣) の首長を中心とした部族連合=前方後円墳秩序(近藤1995b) 、あるいは大和を中心とした首長連合による初期國家=前方後円墳体制(都出1989 ) が全土的に形成された時代をさす。兩氏の國家形成論は異なるが、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の順に墳丘形態による首長墓の序列ができ、大和 の勢力の規制のもとに各地の墓(古墳) が築かれたという点は共通している。奈良縣箸墓古墳(墳丘長280m) を目安に、より古い墳墓を墳丘墓あるいは弥生墳丘墓と呼び、箸墓古墳以降の墳墓を「古墳」と呼ぶこともほぼ一致している。多くの硏究者が 兩氏の主張に触發されて墳丘形態による格差と規制が「古墳時代」にあったと考え、古墳と墳丘墓を使い分けている。そして、「古墳時代」には樣々な文化事象が大和から發信されたという。明快な區分に思えるが、實際は亂用されている。墳丘墓と古墳の區分は兩氏の仮說を前提とするはずなのに、箸墓より古い奈良縣纏向石塚やホケノ山前方後円墳も「古墳」と呼び、古墳時代に含める硏究者もいる。明らかに兩氏の「古墳・古墳時代」の定義と異なる槪念がある。近藤・都出兩氏の說は日本考古學硏究史の上で、もっとも意義深い成果の一つである。とりわけ、初期國家段階を想定した都出氏の前方後円墳体制論は魅力的である。魅力的であるがゆえに、安易に同調して地域の事象を解說するのではなく、その仮說の問題点を檢証する姿勢が必要である。
Ⅰ. はじめに
Ⅱ. 方後円墳の推移と槪要
1 . 巨大前方後円墳 の 動向
2 . 大和以外 で 始 まったもの
石槨 と 石棺 と 橫穴式石室
Ⅲ. 「古墳時代」と前方後円墳 体制論の課題
1 . 前方後円墳 の 普及
2 . 墳丘形態 による 階層論 の 矛盾
3 . 前方後円墳 と 三角緣神獸鏡
4 . 3 世紀墳墓 の 編年 と 三角緣神獸鏡 の 副葬時期
Ⅳ. いま一つの課題 (前方後円墳時代の提唱)
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